オイリュトミー卒業公演を観て

宗教家でもある11年生保護者に
書いていただきました。

子どもたちや先生にお送りした感想を
そのままご紹介いたします。
・・・

久しぶりの学校のホール、
いつぶりだろう? と思い返しながら、
卒業生の娘に訊ねたら、
夏の卒業演劇以来だと。

「あれ、まだ去年の夏?」と疑ったが、
確かにそうだった。

私は、このブログ書きのお鉢を
回してもらうということで、
なんとか間に合わせて
2回観せてもらった。

(*写真 リハーサル風景の撮影につき、練習着を着用しています 一部、本番の衣装を着用した写真もあります)

ホールに入って
ピアノのそばの席に座り、
呼吸を深めて
静かに内側を調えながら、
天井の梁や奥の壁などを
見渡していると、
何かが呼吸と共に入ってきて、
わけもなく涙が溢れてきた。

(新校舎)落成から数年、
人を覆う住まいとして
受肉したのだろう、
それは日々子どもたちがここで、
より高次の生命力を閉じ込めずに
動き回って満たしている、

ここ数日は特に12年生を中心に
高等部の皆が、
そうしてこのホールから建物全体、
その周辺にまで、
いわゆるエーテル、アストラルの身体、
もしかしたらコザールに至るまでを得て、
深い深いゆるしといやしで
満たしたゆえのことだ。

オイリュトミーを観ると、
わけもわからないまま涙が溢れてくる。

そういうことは人生のうちで
あまりないことで、この時、
そしてあの時もそうだったと、
他事では数えるほどしかない。

オイリュトミーとの出逢いからほぼ20年、
はじめ、どう観たらいいのか?

何が起きているのか、何をしているのか? と、
よくわからないまま観ていて、
それでもわけもなく、いつも涙が溢れた

夫婦ともども、いつもこれでいいのか?
何をやっているのか? と、手探りで、
必死に子どもたちの心の成⻑、
よりよい環境を調えるために
日々過ごしながら、
不安もあった、外圧もあった、

そんな中で学期末や年度末の
オイリュトミーを観ては涙を流し、
意識レベルではわけもわからず、
なのにそれ以上の納得がやってきて、
自分がひらけてまた日々を過ごす。

一応自分では、何か意識とか感覚と
いう次元ではない身体に
伝わってくるものがあって、
意識が目覚めると共に眠らせる
そういう高次の身体、

いろんな物質的次元での
しがらみの中で演じる、
複数の自分の重なりの中で
見失う本当の自分に、
そういうものを突き抜けて
手を差し伸べてくる高次の身体が
オイリュトミーなのだろう、
と受け取っている。

それは、何も一つの作品を通してと
いうばかりではなく、
今回なら豊田先生の導入のお話の中
での一瞬の振る舞い、
子どもたちの仕草、
佇まいのなかにも
その身体 が出現する。

プログラムにはなかった、
最後の「出逢い」など、
そんな空間が動く感触を
受け取ることができた。

頭がおかしいのかこの人はと
思われるかもしれないが、
例えば、3m ほど先の舞台で、
スッと前に差し伸べられた手は
私の目の前まで来るし、
ふり掲げた両腕は
天井の梁も屋根裏も突き抜けていく。


演劇で「無対象行動」と呼んでいる、
いわゆる無いものをあるように
見立てイメージするのとは
違う何かがある。

始めに、ハレルヤがあった。
どこか懐かしい記憶、
そうそう、3.11 のその後
皆で毎朝ハレルヤをした。

次に銀河鉄道の夜の一節、
戦場のメリークリスマス、
ベートーベンのピアノソナタ、
どれも天と地と人との
調和をこころみる身体があった。

まさに子どもたちは
「星のじょうろ」の身体を観せてくれた。

12年生それぞれが選んだ詩、
そのものからも、
そしてオイリュトミーによって
目の前に出現したその詩の身体も、
しっかりと自己と誠実に向き合い、
また目の前の事象から
目を背けない意志の強さと、
受け取る豊さと、消化力があった。

すっかり忘れていた「おいしいお粥」、
これは東洋では実際にあった話として
伝えられている食べても食べても
無くならない粥鍋の話。

とても楽しく、大勢の人を満たしてきた身体、
かわいい娘さん、お母さん、
老婆、お粥さんの身体を観せ てもらった。

特にグツグツするお粥さんの身体には
こちらの身体も沸く沸くした。

そしてショパンの幻想即興曲。

もう人の域を超えて
自然のあらゆる生命力が
身体をもって現れてきていた。

だから、今回卒業公演ということになった
お二人には、お礼の言葉しかないのだけれど、

オイリュトミーを通して育んだ身体
(私はそれが人のありのままの身体
だと思うのですが)、

どんな時もどこにいても、
何をしているのであっても
その身体でと願うばかりです。

人類がこのオイリュトミーの次元の身体に気づくのは、
まだまだ先の話なのか、
意外に今年あたりそうなのかもしれない。

いずれにせよ、
そういう身体性はずっとあって、
これからも失われることなく、
この頬の横から大気圏の彼方に至るまでにある。

気づくか気づかないか、
目覚めるか目覚めないか。

自分から自由になるための、
そして思考や感覚のくびきを
超えるためにはこの小径しかない。

もしかしたら、
つべこべ言わずにオイリュトミー、
あれこれ考えずにオイリュトミー
なのかもしれない。

私はおそらくそうなのだろうと思う。
もしかしたら観てもらって
感想を聞いたら、あれこれ聞かずとも
その人そのものが
伝わってくるのかもしれない。

子どもたちの育みと共に
このオイリュトミーに救われながら
歩んできた20年の体験からも、
かなり本気でそう思えていて、
今回もまたその実感を深めさせてもらえた。

(11年生保護者)

・・今後のイベント・・

2023年5月10日(水)
おはなしと小さな手仕事「ことり」
(*未就学児保護者向け)

終了しました。

2023年5月21日(日)
にじいろまつり
親子で体験するシュタイナー教育と手作り市

終了しました。

2023年6月18日(日)
学園説明会

終了しました。